こんにちは。
キウイズムです。
本日は野球の魅力についてとりとめなく語ります。
野球における「残酷」と「悲劇」は苦味みたいなもので、
この2つの成分によって私は野球中毒となっているのかもしれません。
「残酷」
点数、打率、ホームラン、球速。
数字は事実を客観的に映しどこまでも「残酷」です。
選手の生き死にをも決めることができます。
バットに当たる数ミリの差でホームランとアウトという明暗が分かれます。
ボールが落ちる数センチの差でヒットとアウトという明暗が分かれます。
それらの繰り返しで点数の差がつき、最終的には勝者と敗者が生まれます。
たとえ結果として10対0の試合だったとしてもはじまりは「0」と「1」のわずかな差だったのです。
選手個人レベルでみてもそうです。
素晴らしい才能がある選手。
とんでもない努力を積み重ねる選手。
身体能力がすさまじい選手。
しかし数字を残さなければ歴史には残りません。
そうやって消えていく選手が毎年何人もいます。
そして誰かの「1」が誰かの「1」を潰していく世界でもあります。
「悲劇」
甲子園のエースが自分を犠牲にして連投する姿に称賛を送ります。
魔物と呼ばれる存在が信じられない逆転劇を起こします。
1本ヒットを打たれただけで負けてしまうこともあります。
みんなで懸命につないだリードを絶対的な守護神が台無しにしてしまうこともあります。
たった1つのアウトがとれない。
たった1球のストライクがとれない。
たった1つのヒットが打てない。
起こってほしくないことが起きます。
でもどれもよくあることです。
勝者より印象に残る敗者の姿があります。
プロ選手の本気の悔し泣きに胸をうたれます。
野球の主役は言うまでもなく選手です。
選手は「残酷」の上に必死に数字を残します。
そうして掲げられた数字は美しく輝きます。
選手は「悲劇」を避けるべく技術を磨きます。
立ち向かうプレーの一つ一つに胸が躍ります。
そうやって出てきた旨味を頂くことが正しい野球の味わい方とも言えます。
しかし一方で我々は「残酷」や「悲劇」といった苦味そのものを心のどこかで望んでいるのではないでしょうか?
また今年もビールを飲みつつ野球を観ましょう。
それでは今日はこの辺で。
ありがとうございました。